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小説 祇園精舎の鐘の声  二十三の編

 生成AIの登場で人類は色めき立ってゐるが、これもまた「楽」の追求により生まれたとしかいひやうがない。ここにきて生成AIに対する否定的な意見が多くなってきたが、水爆まで核競争を繰り広げた人間は最早生成AIの開発競争に自ら身を投じ、生成AIの進化は最早誰も止められない。誰が何をいはふが生成AIの開発競争は止まらない。では、「楽」の追求に過ぎない生成AIはどんな未来を拓くのだらうか。これには色色と意見の分かれるところだと思ふけれども、大いなる渾沌をへて情報過多なのにがらんどうの、若しくはのっぺらぼうの顔をした世界が拡がるかもしれない。それは、先づ押さえておかなければならないのは生成AIは学習するテキストは全て過去のものといふことである。つまり、生成AIが生み出すものは全て過去のものの継ぎ接ぎで、といふことは未来は過去で溢れるといふことである。過去の大海嘯により未来は全く蓋然性の消えた何の面白味もない過去の延長線上に集約されてしまふのだ。溢れ出す過去に人間はキャッキャと嬉嬉として生成AIに振り回されながら、現在を過去から生まれた過去の継ぎ接ぎのものでしかないものに現在、そして未来を託すといふ愚行を必ず冒す。社会の根本が生成AIに乗っ取られ、便利、つまり、「楽」といふことで人間はどっぷりと生成AIに浸かる。そこが競争をしてゐる巨大企業の狙ひ目なのだ。「楽」に溺れた人間ほど御し易い生き物はゐない。新たな生成AIが登場すればすぐにそれに飛びつき、如何にそれが「楽」かでSNSは湧き立ち、お祭り騒ぎとなるのは目に見えてゐる。生成AIが次次と現れて秩序は失はれやがて渾沌の溢れる過去に蔽はれた未来はすっかり蓋然性を失ひ、未来は己に絶望する。人間は茹で蛙如くさうなっても生成AIを使ひ続け更なる渾沌を招くのであるが、情報が生成AI自ら創作、否、継ぎ接ぎした情報で溢れかえると最早、生成AIは臨界を迎えてどの生成AIも同じやうな応答しかしなくなり、渾沌であった情報過多の未来はのっぺらぼうの世界に急変する。その変化は余りに速いので、人間は其処で、戸惑ふことになる。
 さあ、その時こそ人間の知性のあるなしが問はれる絶望的な未来が待ってゐる。過去で埋め尽くされた未来には最早蓋然性はなく、選択の自由は人間には残されてゐないのだ。全く知性のないものも生成AIを使うといっぱしの人間になれるかも知れないが、情報過多の渾沌の世界が終焉したその時、ものをいふのは知性のみである。のっぺらぼう世界と対峙できるのは知性溢れる人間のみなのである。それはいはば、遂に情報過多の世界の終焉でもある。さそこでまた、足で稼いだ生の情報が途轍もなく重要で、さうすると前近代に逆戻りする。その時、人間は「楽」を棄てて街へ飛びたさないことには何も始まらないのである。


二十三の篇終わり

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